気ままにダンス。

主に聖地巡礼、他にも色々、そんな日記。

【シャニマス】パラコレ黛冬優子から考える、アイドルが存在することの意味について。

こんにちは。
パラコレ冬優子、来てしまいましたね。
もう来たか。
こんなに早く来るとは思いませんでした。
苦しい。
とても苦しい。
そもそも私はこの企画が発表された当初から否定寄りの考え方ではありました。
それに関してはnoteに詳しく書いてあるのでこちらからどうぞ(特に使い分けているわけではなく、 #シャニマス感想コンテスト があったのでその期間はnoteを使っていただけです)。
https://note.com/kimamanidance/n/nde074eae4a00
とは言っても、私はこのコンセプト自体が気にくわないだけであって、甘奈と雛菜のコミュを読んだわけではないのです(一生金欠貧乏クソ雑魚人権剥奪弱者オタクには担当以外を回す石の余裕がないため)。
ただ発表されている内容から勝手に憶測を立てて好き放題喚いているだけの実に自分勝手なオタクでした。
そんな奴にシャニマスを語る資格はないですね。
そんな罪深いオタクには速攻で天罰が下り、なんと2回目のパラコレで早くも冬優子が実装されてしまいました。
読みたくなかったのにこんなに早く来ちゃったよ。
来てしまったものは仕方がないので引いて読みました。
これでシャニマスを語る資格が与えられましたね。
では感想を書いていこうかと思います。


なんだこれ?


これです。
いや本当に。
なんなんだこれは。
やりたいことはわかるんですよ。
三文ノワールですよね。
あののち、女優の道を選んだ冬優子ですよね。
それはわかるんだけど…。
アイドルマスターって、アイドルをプロデュースするゲームじゃないんですか?
よっしゃ、アイドルをプロデュースするぞ!ってゲーム始めたらアイドルが移籍してプロデューサーと気まずくなっているのを見せられるのって、何?
本当に何?
それってこのゲーム、ひいてはコンテンツを根底から揺るがすことじゃないの?
そして最後には夢オチ。
なんだそりゃ。
わけわからん。
ifの世界を見せるよ!って言って夢オチってなんなんだよ。


上でも触れた通り、アイドルをプロデュースするゲームの、プロデュースモードで、アイドルを辞めたところからスタートするのってなんなんでしょうね。
このご時世、アイドルから俳優やタレントに転身することも珍しくありませんが、アイドルマスターというゲームでそれをやるのはどうなんでしょう。
三文ノワールがアイドルというものの在り方について問うたコミュで、あれはとても面白いと思いましたが、こんな形で結論を出されるのは望んでいなかった。
これは「プロデュース」の外で展開されるべきストーリーだ。
熱心にプロデュースした結果、アイドルはトップまで上り詰めたが事務所を辞め、今は会話も交わらないなんてあんまりじゃないか。
プロデューサーとしてここまでやって来た結果がこれなのか。
勿論、現実ならそういうこともあるだろう。
いや、そういうことの方が多いだろう。
何故なら、アイドルは永遠ではないから。
限られた一瞬だけを輝くのに全てを注ぎ込むものだから。
わかっている。
だからアイドルが好きなんだ。
そして、このコンテンツはその「一瞬」を見たいがために永遠に繰り返すものではないのか。
このコミュにおいて、俺はなんなんだ?
アイドルマスターシャイニーカラーズ、アイドルの輝き、アイドルの色を、このコミュのどこに見出だせばいいんだ?


少し自分語りをします。
私はかれこれ15年以上ジャニーズのオタクをしています(過去に囚われているのでここは便宜上ジャニーズと書きます)。
嵐が好きで、私の人生で一番長く推しています。
ライブに行ったり、バラエティやドラマを見たり、本当に楽しかった。
そんな嵐は、2020年に活動を休止しました。
泣いた。
私はアイドルの嵐が好きだったから。
活動休止後も引き続きタレント活動はしているし、私も映画やドラマを見ることはあります。
しかし、前ほどの熱はありません。
これは個人的な感想ですが、それほどまでにアイドルという肩書きが大きかったのです。
アイドルである嵐が好きだったのです。
映画やドラマといった活動は同じだったとしても。
理屈では本質が変わっていないことはわかっていても、私は理屈ではなく感情でオタクをしているので、その感情がどうしても熱を帯びてくれないのです。
裏を返せば、アイドルでない彼らに出会っていたとしても、私は恐らくファンにはなっていなかったのだろうなと思います。
アイドルという、ジャニーズという付加価値は、単純かもしれませんが、人間そのものの価値を変えてしまうくらいに大きい。
本質が見えなくなってしまうくらいに大きい。
そこにこそ価値があると言ってもいい。
私はドルオタでありジャニオタなので。
思想が強いことは重々承知しておりますが、その芯をしっかり貫いた上でアイドルが好きであると豪語しているので、ある意味宗教的でも言えるほど偶像崇拝に真っ直ぐな自分自身を、私は誇りに思っています。


話を戻します。
アイドルマスターはそんなアイドルの最も輝く一瞬を切り取ったゲームであるのは先程述べた通りですが、そんなアイドルたちをプロデュースできることを売りにしているゲームですが、アイドルを辞め、事務所を辞め、担当ですらなくなった黛冬優子に対して、私はどんな存在でいられるのでしょうか。
彼女をプロデュースする存在でしかない私が、彼女に対してどんな価値があるのでしょうか。
アイドルという輝きを失った彼女を、私は好きでいられるのでしょうか。
メタ的な話をするなら、今後もアイドルの黛冬優子は言うまでもなく存在するし、なんならTrue Endのアイドルである冬優子を見て「うわっ、好き」となったので冬優子に対して現状どうこう思うことはないのですが、しかし、パラレルの世界線に立った冬優子に対してどうなるかは、わかりません。
その描写は、アイドルマスターシャイニーカラーズに必要だったのでしょうか。
これはコミュの質が良い悪いということを言いたいのではありません。
こういったコミュをアイドルマスターというゲームの中に存在させていいのか、という話です。
コンテンツの中ではなく、プロデュースゲームの中。
アイドルとしての全てが終わったあとで、プロデューサーが介入する余地が全くないストーリーは、アイドルマスターというゲームで言うならバッドエンドではないでしょうか。
これは以前の記事に書いていたのとはまた違うグロテスクさを秘めています。
アイドルが輝き終わった姿を描くのはアイドルマスターシャイニーカラーズなのか。
それがこのコンテンツのやりたいことなのか。
私にはわかりません。
正直、5th Day.1と同じ臭いがします。
尖っていることをすればいいというわけではないんです。
筋を通してほしいんです。
これはシャニマスに対して誠実なコミュなんでしょうか。
わからない。
苦しい。
私が間違っているんでしょうか。
アイドルマスターシャイニーカラーズというゲームにおいて、このコミュがバッドエンドであるとしか解釈できない私が浅いのでしょうか。
浅いんだと思います。
浅くてもいいからこれを認めたくない。
そんな未来はきっとあるのかもしれないが、そんな可能性があるのかもしれないが、私はアイドル黛冬優子が好きなんだ。
知りたくなかった。
知りたくなかったな。
知らなくてもいいことってあると思うんですよね。
アイドルマスターってなんなんでしょうね。
アイドルマスターシャイニーカラーズにおけるプロデュースってなんなんでしょうね。
私は、黛冬優子のことは好きですが、アイドルマスターシャイニーカラーズのことは好きではないのかもしれません。
拗らせたドルオタに救いをください。
永遠を求めたはずのアイドルマスターに永遠はないと突き放され、行くところのなくなった惨めなドルオタに救いをください。
俺はただ、冬優子の輝いているその一瞬をずっと見続けたかっただけのはずなんだけどな。